連対責任とは
懸命に取り組んでいる高校球児には少々失礼ですが、夏の風物詩に甲子園でおこなわれる全国高校野球選手権大会あります。
今や日本の文化ともいえるものです。それゆえに、明徳義塾で起きた不祥事は残念でなりません。
個々の生徒の起こした問題に関して、私の高校時代を振り返ると正直にいって、決して私は強く言えるものではありません。
叱られるのを承知で言えば、そのような問題はどこでも、誰でも起こす可能性はあります。高校生といえば大人と認められる一歩手前です。背伸びもしたいでしょうし、子どもの面も残しています。
私は、回りの大人に問題があったように思います。直接、関節を問わず。
連対責任についてもう一度考える必要があります。組織をまとめる意味において連帯責任を持ち出すことは、管理者にとって非常に有効な手段です。
しかし、3年間甲子園を目指して休みなく練習してきた一部員にとってそれは何の意味を持つのでしょうか、見返りとして金銭を頂く会社ならともかく、理不尽極まりないものです。
社会に出れば理不尽さはいくらでも味わえます。理不尽を味わうのはそれからでも遅くはないと私は思います。高校時代は純粋に過ごして欲しいものです。
今回の件については、連帯責任をとって出場停止が怖かったために、不祥事の隠ぺいに繋がったものと思います。
高野連は「早い段階で報告があれば、出場の道もあったかもしれない」といっています。それは、過去の経緯から体裁を繕っているのは明らかです。
問題があった生徒と管理責任者を処分するだけで、よかったのではないかと思います。連対責任の意味をもう一度考え直していただきたい。何ゆえの連帯責任なのかと。
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